子守唄研究室
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研究リポート

子守唄にみる幼児労働

2002年11月1日 會本希世子

1.子守のはじまり

1772(明和9)年に刊行された民謡集「山家鳥虫歌」に、次のような子守唄が収められています。

        勤めしょうとも子守はいやよ
        お主にゃ叱られ子にゃせがまれて
        間に無き名を立てられる   (志摩地方)

 18世紀後半には労働としての守り子達があらわれ、子守奉公と守り子唄が歌われ始めたのであろうとみることができます。

 しかしこれは家事労働として、兄や姉達に課せられたもので、年季奉公としての子守りではなかったと考えられます。

 それ以前の記述では、イエズス会の宣教祖として35年間にわたり日本で布教活動を行っていたルイス・フロイスが「ヨーロッパ文化と日本文化」の中で、「日本ではごく幼い少女が、ほとんどいつでも赤児を背に付けて行く」と書いています。(16世紀末のこと)

 子守りが社会的に要求された時期は、江戸時代の末期から明治時代にかけてです。商品経済(商業)が発展した結果、商業的・高利貸し的な資本が農村にまで侵入し、自給自足経済から貨幣経済へと変わっていく時に、貧富の差が拡大し、貧しい者はより貧しく、富める者はより裕福になってきました。そこで必要になったのが安い労働力でした。このようにして窮乏農民の子供達が、不幸にも幼くして働く場を与えられたのです。「食い扶持」を求めて「口減らし」のために、中流以上の農家や商家に奉公に出されたのです。男子は丁稚・小僧として、女子は子守り・走り使いとして働かされることになったのです。この墓に、明治維新後の徹底した堕胎禁止によって人口が急速に増加したため、子守りに対する需要も増えたと考えられます。

子守り 自分の弟妹達の守りをする 
 
雇われて他人の子の守りをする 自村で雇われている 
他村から雇われてきた

2.守り子唄とその背景

子守唄は「遊ばせ歌」「眠らせ歌」「守り子唄」に分類して研究されています。江戸中期以降から大正の初年頃まで、子守を雇うことは全国的な傾向がありました。他の産業(紡績など)が発達しない間、女性達が働く場は子守りか女中奉公、または花街と言われる所しかありませんでした。他村から雇われてきた子守り達は、自分の置かれた情況を嘆き、感情の発露を唄に見出したのです。

 「苦労して苦労したその後で 女郎に売るとはどうよくな」と、子守りで苦労して、年頃になったら、こんどは身売りされてしまう現実もあったのです。

竹田の子守唄(京都府)
    守りもいやがる 盆から先にゃ   雪もちらつくし 子も泣くし
    この子よう泣く 守りおばいじる  守りも一日 やせるやら
    はよも行きたや この在所こえて  向こうに見えるは 親のうち
    来いよ来いよと 小間物売りに   来たら見もする 買いもする
    久世の大根めし 吉祥の菜めし   またも竹田の もんぱめし
    盆が来たとて なにうれしかろ   かたびらはなし 帯はなし
         (注:もんぱめしとは、米に豆腐のおからをまぜた飯)

 当時の竹田部落では、母親は明けても暮れても「鹿の子絞り」の仕事に追いまわされており、赤子を抱いて子守唄を歌うような風景はまったく持てなかったという。子供達が小さい弟妹達の子守りをし、近所の同じ年頃がしだいに集団化した。未開放部落は閉鎖社会としての長い、いたましい歴史を持つが、そこに伝承される唄は一般社会とほとんど相違するところがない。幼少時から労務を与えられて、十分に遊んでいない人が年長者ほど多く、わらべ歌が発達していない反面、子守唄は豊富である。

 丹後地方は、府内の他の地域に比べて守り子唄がより多く採取されるのは、この地方が有数の機業地であるため、仕事に従事する女性が多く、子守りはどうしても必要であり、専門に守り子を数多く雇い入れた土地柄を反映している。丹後縮緬の里の人たちには、子守唄が機織り唄であり、機織り唄が子守唄にもなった。

島原の子守唄(長崎県)
 (1)おどみゃ島原の おどみゃ島原の 梨の木そだち
    何の梨やら何の梨やら 色気なしばよ しょうかいな
    はよねろ泣かんで おろろんばい 鬼の池の久助どんの連れん子らるばい
 (2)帰りにゃ寄っちくれんか 帰りにゃ寄っちくれんか あばら屋じゃけんど
    と芋めしゃ栗ン飯 と芋めしゃ栗ン飯 黄金飯ばよ しょうかいな
    嫁子ン紅な誰がくれた つばつけたなら赤ったかろ
 (3)姉しゃんなどけいたろか 姉しゃんなどけいたろか 青煙突のバッタンフル
    唐はどこんねき 唐はどこんねき 海のはてばよ しょうかいな
    おろろんおろろん おろろんばい おろろんおろろん おろろんばい
 (4)山ン家はかん火事げなばい 山ン家はかん火事げなばい サンパン船はよろん人
    姉しゃんなにぎん飯で 姉しゃんなにぎん飯で 船ン底ばよ しょうかいな
    おろろんおろろん おろろんばい おろろんおろろん おろろんばい
 (5)あん人たちゃ二つも あん人たちゃ二つも 金の指輪(ゆびがね)はめとらす
    金はどこん金 金はどこん金 唐金げなばい しょうかいな
    おろろんおろろん おろろんばい おろろんおろろん おろろんばい

 この唄は創作子守唄です。島原鉄道の専務から作家に転身した宮崎康平氏が、実際にわが子の子守をしながら作詞作曲した者です。大正のはじめ三池築港が完成するまで、口之津が三池の外港であり、三井の石炭が積み出されていました。そこには香港のバターフィルという船会社の船が出入りしていて、地元の人たちは「ばったんふる」と呼び、後には外国の貨物船をすべてそう呼んでいました。娘達が密輸される夜は、決まって山の民家に付け火があり、町が騒然となるその隙に、口之津港からひっそりと船が出て行きました。その船底では、にぎり飯をあてがわれた娘達が、苦痛と反逆と諦めとの乱れあう長い船旅を強いられていたのです。彼女達は「からゆきさん」と呼ばれていた出稼ぎです。

 そして女郎として異国の土に埋まらず、運良くシベリア馬賊の妻となったり、シャムやシンガポールで華僑の妾となって金をもうけて帰ってきた婆さんの指に輝く二つもの金の指輪を見ると、子守りはいつか自分も売られる身とは知らずに、羨ましく思っていたのでしょう。

五木の子守唄(熊本県)
   おどま盆ぎり盆ぎり 盆から先ゃおらんど 盆が早よ来りゃ 早よもどる
   おどまかんじんかんじん あん人達ゃ よか衆 よか衆よか帯 よか着物
   おどんが打死ちゅて 誰が泣いてくりょか 裏の松山 蝉が鳴く
   おどんが打死んだば 道端ゃいけろ 通る人ごち 花あぎゅう
   花はなんの花 つんつんつばき 水は天から もらい水

 *この歌詞は歌謡曲として歌われているものですが、元唄となっている五木の子守唄は、五木地方の子守唄として多くの歌詞を持っています。

   おどま非人非人 ぐわんぐわら打ってさるこ ちょかで飯たいて 堂に泊まる
   おどまばかばか ばかもった子じゃって よろしゅたのんもす 利口かひと
   子持ちよいもの 子に名をつけて 添い寝するちゅて 楽寝する
   つらいもんだよ 他人の飯は にえちゃおれども のどこさぐ
   おどまいやいや 泣く子の守りは 泣くといわれて にくまるる
   子どんかわいけりゃ 守りに餅くわせ 守りがこければ 子もこくる

 江戸時代の五木村には「旦那」と呼ばれる三十三家の地頭がいた。村を支配する庄屋であり、山や畑を所有する地主であった。子守唄に歌われている「あん人たちゃ良か衆」とはこの人たちのことである。村民はいずれかの地頭に小作人として所属し、「名子」と呼ばれていた。小作料は賦役労働であり、その一部として子供までが9歳くらいから年季奉公をした。娘の場合は子守り奉公で、報酬は年間に米2俵か3俵であったという。出替わりは正月・盆・彼岸で、それぞれ1年間の勤めであった。

 大正15年に山江村山田で生まれた一女性は、8人姉妹の4番目で、昭和13年に同村に年季奉公に出された。いわゆる「口減らし」のための奉公であったが、1年に3斗俵1ぴょうを親元がもらった。お金は祭りの時に30銭か50銭もらい、子守の他に夜なべとして踏み臼の手伝いをさせられたと言う。2年の奉公の後、また他家へ奉公に出されたが、それから10日間あまり、毎日のように我が家の見える坂の上まで、2kmの道を通ったと語っている。

 創作された子守唄以外はその発生は年代不明ですが、伝承・口承されていくうちに内容が少しずつ変わってきた事は確かです。労働として子守りをしたと言うより、生きるために誰かが犠牲になる、子供を生かすために年季奉公に出すことでもありました。

3.労働契約・条件

 板橋区史の「奉公人」のところに奉公人の請状がありました。その一例には

一、このとめと申す者は、身元が確かな者なので、私どもが請け人として、貴方様に間違えなく奉公させます。給金として金子一両一分を只今確かに借用いたしました。但し、年季については、当申年(文化9)の12月から酉年(文化10)の12月まで、一ヵ月に10日づつ奉公をいたします。

一、幕府で定めました御法度だけでなく、貴方様の家のしきたりにも背向きません。宗旨は代々真言宗で、同村の常楽院の檀家であることに間違いありません。万が一、この者が逃げ出してしまった時には、言い訳をせずに、我々で捜し出します。若し見つけ出せない時には、給金の返金であろうと、また代理人の奉公であろうと、貴方様のご希望に従います。この者の事で、親類だけでなく、外から異議を言い立てる人はいません。もし何かクレームを言う者がいたとしても、我等請け人がどこにでも出掛けていき、すぐに説明をし、決して貴方様にはご迷惑をお懸けいたしません。後日のための奉公人の請状です。以上述べてきたとおりです。

        文化九年(1812)申極月日   前野村  人主 仙太郎                             請人 彦右衛門    同村   豊 蔵 殿

 もう少し遡った享保8年(1723)のものには、11歳のたつという女の子が5年間の奉公 の請状で、給金は一分、仕着せに夏は帷子を1着、冬は袷を1着づつ与えてください・・。

と書かれていました。このような請状が残っているのは珍しいことです。

*守さ精出せお正月粗物/裾にゃ鶴亀五葉の松。守さ精だせ夏の季は肌着/織って着せるぞ桔梗縞に。守さ精を出せ精を出すしゃ着せるよう/紺に浅黄に桔梗入れてよう。守さ今度の季に給金いくら/二十四文に、草履、油。守さ子守さ今度の季はいくら/二貫五百に草履油。いやじゃいやじゃと半年暮れた/いやな半年長うござる。おいておくれよまた来年も・せめてこの子が歩むまで。子守奉公楽だか苦だか/半季出てみよ夏の日に。こんな泣く子の守するよりも/わしは機やへ管巻きに。(愛知県)と、品物より現金が手に入る仕事を選ぶようにもなっていきました。また、年季明けは

*どうかそらちゃうて 半年暮れた/またの半年ゃ泣き暮らしドウカソラ/なごれ十三日が明日ならよかろ/せめて今夜なら なおよかろドウカソラ。「あー金ん鎖が今夜はガチャーンと切れた」福岡県では、12月13日が子守の出代わりの日でした。

*早く霜月十五日/お父さんの前へも手をついて/お母さんの前へも手をついて/大きにながながお世話さま(栃木県)。

*早く日が暮れて、はや夜が明けて/早く二月がくればよい/二月二日のおひまがでたら/旦那ながながお世話さま/つらの憎いのはあの女子ひとり/馬にけられて、死ねばよい。 (千葉県)

*ねんねん子守りはつらいもの/人には楽だとおもわれて/親には叱られ子にゃ泣かれ/雨風吹けども宿はなし/人の軒端で日を暮らす/早く三月くればよい/三月三日は出替わりで/茶碗におまめで 箸あばよ/ねんねろねんねろ ねんねろよ(群馬県)。

どこの地方でも盆と正月には親元に帰ったようですが、それも叶わず「親は死んでしまった」と嘆いている唄も多くありました。

4.社会情勢と子守り(女子労働)

 子守りが社会的に必要とされたのは比較的短期間でした。その理由としては、近代資本主義(貨幣経済)が勢いづいてきて、女性達に有利な条件を提供する事業、紡績を中心とする諸事業が発展してきたことがあげられます。この事は、子守りの最も大きな雇用先であった中・小地主階級が、産業資本主義社会から取り残されて、雇用条件を次第に悪化させていったからです。都市の中・小商家も次第に経営難となっていったことなどもあり、子守りの需要も減っていきました。さらに幼児教育機関としての託児所や幼稚園が発達し、子守り達による幼児教育は非科学的で悪影響があるとされ、排斥されるまでになりました。職場のなくなった女性達は、製糸・紡績工場に女工として、女工哀史とまで言われた紡績工場での過酷な労働に身を置いたのです。

 子守りは、図らずも女子労働の先駆的な役割をはたしていたのです。


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