子守唄研究室
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研究リポート

子守唄とジェンダー

2002年11月1日 會本希世子

子守唄の研究は各方面で行われています。民俗学関係から音楽としての研究まで幅広いのですが、そのほとんどが男性の研究者でした。そこには、研究者の幼い日の郷愁を思い浮かび出させるものが感じられました。という私も、山口百恵が歌っていた「いい日旅立ち」の歌詞にある「母の背中で聞いた歌を道ずれに…」を耳にした時、「私はどんな子守唄を聞いて育ったのか」と思い、母に聞いてみました。私が生まれたのは1941年3月、世の中は戦争状態にあり、父は仕事(大蔵技官)で香港に赴任していました。同年の12月には日本も参戦していたので、東京で暮らしていた母は、残された4人の子供を守るのに必死だったと思います。私を背負って子守唄を唄った記憶より、空から落ちてくる焼夷弾から逃げ回ったことの話のほうが多かったのです。

母は宮崎県の高原(タカハル)の生まれで、妹をお守りした時に「♪ネンネコネンネコヨーオ」と単純な歌詞に抑揚をつけて歌っていたと言っていました。そのことがどのように働いたのか、母は私達姉妹に職業人として力をつけるようにとの教育をしてくれました。 ラジオも新聞も各家庭になど行き渡らなかった時代に、人の生き方を左右したものは何であったのか、子守唄にメディアとしての役割があったのではないかとの思いから、調べてみることにしました。

全国各地で歌い継がれてきた子守唄には、歌われていた当時の社会情勢や地域性が色濃く出されています。例えば、「間引き」や「子殺し」のことを言っていることでも、ある地方では「女の子だったら殺すように」と言ったり、別の地方では「男の子だったら…」と、性によって生かしたり殺したりするような内容が歌われていました。また、女は「行かず後家」よりも一度は嫁に行って離縁された方が世間体がいいとか、「嫁入り道具を沢山持たせるから帰ってくるなよ」と親が言えば「千石積んだ舟も、天候が悪かったり港に不備があれば引き返すのだから」と、娘が親に言い返している歌もありました。

「ねんねんころりよ……」で始まる江戸子守唄の類歌が各地に多くありましたが、そのほとんどが「坊やはよい子だ」と歌っていました。私達(親の世代も)はこのような歌を、幼い頃からずっと耳元で囁かれて育ってきました。乳幼児期から、本人も気付かぬうちに性差別意識が刷り込まれ、植え付けられてしまったのではないでしょうか。 あなたは、どんな子守唄を聞かされて育ったのでしょうか。そこに、ジェンダーバイヤスはなかったでしょうか。

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